サイエンスとサピエンス

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ラッセルの七面鳥のたとえは「人類の繁栄」にどこまであてはまるのか

 バートランド・ラッセルは絶妙なたとえで哲学上の問題を示してくれるのだけれど、帰納法の問題についても「七面鳥のたとえ」が有名だ。

 少々長いけれども、チャルマーズの本から孫引きしよう。

 七面鳥は、飼育場での最初の朝、九時に飼を与えられたということがわかった。七面鳥は、よき帰納主義者だったので、性急に結論をだしたりはしなかった。朝九時にエサを与えられるという事実についての多数の観察を集めるまで待った。

 そして多様な条件のもとでこうした観察を行ったのである。水曜日にも、木曜日にも、あたたかな日にも寒い日にも、雨の日にも晴れた日にも、毎日、毎日、新しい観察言明をリストにつけ加えた。こうして帰納主義者として満足いくまで思慮深さを示したら、ついに、帰納的推論を遂行して、「いつも朝9時に飼を与えられる」と結論した。

 ああ―、かわいそうに! この結論が誤りであるということは、疑間の余地なく証明された。

 クリスマスの前日のことである。七面鳥はエサを与えられる代りに、首を切られてしまった。こうして真なる前提をもった一つの帰納的推論が誤った結論へと導いたのである。

 過去の事象の正確な観測とその積み重ねに由来する法則やルールは「普遍性」を持ちえないことの寓話なのだ。

 これはスティーブン・ピンカーの主張やロスリングの『ファクトフルネス』のような過去のデータから、現代文明と人類は暴力が減り、人びとの生活は世界的なレベルで改善されてきているという説に当てはまるだろうか?

 ピンカーたちは自説の法則性を主張はしていないし、普遍性などは論外だと思っている。数百年の趨勢と現状が憂慮すべき状態ではないと言っているに過ぎない。執筆時での社会情勢に限定される主張であれば十分に意味がある。

 残念ながらそこに限定しなければ、「帰納法」の限界に引っかかるだろう。七面鳥とピンカーらは同じ満足した状況の持続トラップにハマるのだろう。

 帰納法の件は歴史にあてはまるかどうかは、一般に論外とされる。それが統計データを土台にしていてもだ。自然科学の限界についての枠内でしか帰納法の限界は扱えない。

 なにしろ歴史は自然科学とは別物なのだ。通常の科学的な意味で「歴史の法則」は望みえないのだろう。歴史を決めるパラメータが多すぎ、登場人物が数知れず、観測者(記録者)の立場が多すぎ、それらの客観性や信ぴょう性が保証できない。ロフタスの目撃者証言の記憶の真正性の研究を参照すると記録者の記憶もそれほど確かではないことになる。

 過去記録から「これからも繁栄や暴力性の低下は持続する」というような社会の趨勢の導出などは無理なのだと思う。

 ピンカーたちの主張はラッセルの七面鳥のたとえと同じ土台にはない、というのがここでの帰結だとしておきます。

 

【参考文献】

 Wiki帰納法での七面鳥の引用は下のチャルマーズがソースだろう。それほど人気のあるロングセラーなのだ。一方で、ラッセルの原話は『哲学入門』という未入手本にあるようだ。

 

 下記の著者たちの主張に賛同してしまうことは、満足している豚になりさがるのではなかろうか、という疑問がつきまとう。