サイエンスとサピエンス

気になるヒト、それに気なる科学情報の寄せ集め

柳田国男とは何者だったのか

 いくつかの柳田国男論を自分も読んでは見た。
読んではみたものの「群盲象を撫でる」の感は深まるばかりであった。それもそのはず、論者たちは時代の制約のせいで、「小者」になっているからであろう。明治の成長期に時代の重荷を背負って幾たびもの試練や国難を乗り越えた人物やそうした人たちとの交わりがもたらす効果というものは、平成の小人物である自分らからは、不可測としか言いようがない。

 ただし、歴史の経過から過去を鳥瞰して、
「こういう世相であったのであるから、かく振る舞ったのだろう」
という「形相学」的な論断というのは、後世の我らの優位にたてる数少ない立脚点であろう。

 そいじゃー、柳田国男の評価はどうなるのであろう。彼の長い人生とその長大な業績は、やはり時代相ととも変遷したと見るべきだろう。

 初期の頃の文学的香気が漂う朝もやのような業績、『石神問答』『遠野物語』や『山の人生』では幻想が現実を覆い隠しているようだ。山人や霊が地上界に降り立ち、語り部である民人と交流する、そんな世界は同時代の泉鏡花の文学とも似ている。農政官僚の職務の合間におこなった研究と言うより、見聞と創造の合成体だ。
 坪井正五郎の雑駁な人類学&考古学とクロスオーバーしながら、民間学を模索した時期ともいえる。そのあたりの時代考証山口昌男の『内田魯庵山脈』が厚みをもって描き出している。


 中期になるとリアリティが増幅する。観念世界から生活世界に舞台が移る。
それは官を辞して朝日新聞に入社して論説委員となる時に相当するだろう。42歳からの十年間ほどの壮年期だ。
八面六臂の活躍というべき時代。大体大正期にあたる。南方熊楠との交流がある。
 『海南小記』『雪国の春』あたりの業績がそうだろうか。時代は前後するが『後狩詞記』もそうしたフィールド上からの記録の集成であろう。ここで民俗学徒が大量に傘下に集まり、民俗学として組織化されてくる。折口信夫以下の少壮学徒もそうした機運にのって成長する。

 後期が長い。その時期は55歳に始まる。
 ジャーナリズムから在野の学徒になるとアカデミズムへの傾倒がます。J.G.フレーザーの業績など西洋のフォークロア民族学の理論を取り込むだす。『民間伝承』や民話、伝説、昔話やことばなどに拡大する。
円熟の境地だ。『木綿以前のこと』『妹の力』『桃太郎の誕生』『先祖の話』などがある。

 そして晩期にあたる戦後の十数年。明治以降の国体が崩壊し、精神的基盤が揺らいだ時代である。70歳から死去する直前の86歳までであろう。その時代要請に答えるべく、来し方を省みた『故郷七十年』、精神の貧困に一矢向いた『不幸なる芸術』、常民の中心点である『稲の日本史』、そして南方の海の彼方に思いを馳せた『海上の道』で最後の光芒を放つ。日本人の出自、原点、本質と行方を問い続けたのだ。

 このようにして、時代相と柳田の生きた文化やその業績の積み重ねを、より精密にオーバーラップさせれば、彼の全体像は捉えやすくなるではなかろうか。
 こうした