サイエンスとサピエンス

気になるヒト、それに気なる科学情報の寄せ集め

過去のメディア論から認知の社会的変化を考える

マクルーハン以来80年経過した 過去のメディア論
ところが研究対象のメディアの変容が早いので、誰もそれを適切に評価しえないうちに
時代が動いてしまっている。

 いつの間にか本流になったSNSは短いコメント(イイねボタンやエモティコン)と写真、それにクリップ動画
なのでP2Pコミュニケーションが盛んになっている。
 筋道立てた論説は気息奄々の「新聞」にのみ生き延びているが、世論を主導するもではない。
テレビですら新機軸は打ち出せなくなくて低迷が始まって久しい。

 こんな急速な変化潮流に対して、誰もが「鈍感」になっている。おそらくはメディアの様態の変化の速さは知識人の分析や反省などを無効化してしまった。

なもので、我らは自前で考えなければならないハメに陥ったのだ。
そうしたなかでもケルコフの『ポストメディア論』はマクルーハン以来の刺激的言説をもっている。

かつてはこんな指摘も意味があった。

「なにをするにも、サッと見て、パッと変える。これが私たちのやり方だ」なるコメントで、社会評
論家マイケル・イグナティエフはテレビを批判している。


さらに

クルグマンはのちにさらに興味深い説を発表するが、それについては誰もとりあげなかった。彼の主張によると、テレビの前で育った子供は、普通に育った子供と、ものの見方が違うというのだ。

あるいは「間合いの崩壊」といった問題。

急速に変わる画面表示は、言語表現を待つてくれない。なんの説明もなく視角が変わったり、映像からテキストヘ、テキストから映像へと予測できない転換もある。


 だからこそ、ビジネスマンや専門家たちはプレゼンテーションで語るようになってしまった。即座に理解できる内容でなければ価値(=閲覧数)がないのだ。

 情報の取得先も変化した。

マーク・ポスターは『情報をどうぞ』において、昔は人に尋ねていたことを今では機械に尋ねているという変化を、思い出させている。

  知覚の変容をかなり幅広く探求したのはイー・トゥアンという現象学的地理学者であった。いま、手元にはその文献がないが、一種の空間メディア論というべきであろう。

 テレビが大衆の認知行動の変化を準備したと言える。そして、80年代には音楽や映像はウォークマンやビデオカメラにより個人の編集対象となり、やがて収蔵対象となる。
 90年代になると人びとの関心を細切れにしたのがインターネットだ。
2000年になるとインターネットがスマホ経由で生活の襞にまで入り込み、SNSなる「縛り」をいれて人びとの行動をくまなく監視できるようにした。


【参考文献リスト】

 50年代のメディア論の古典から行こう。

グーテンベルク銀河系の終焉―新しいコミュニケーションのすがた (叢書・ウニベルシタス)

グーテンベルク銀河系の終焉―新しいコミュニケーションのすがた (叢書・ウニベルシタス)

ポストメディア論―結合知に向けて

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ネット検索革命

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