農耕は文明の重要にして要となる発明だったのだけど、それが元で定住革命というような都市文明が生じたとされている。その農耕の奥底にある深い人間の性向は、生活必需品を手元に取り寄せておきたい、その上で生存の安定化を図りたいという根源的願望があるようだ。
飲み物や果樹や穀類を定まった場所から定期的に収穫するという傾向を「手元」化と呼んでみよう。ところで、J.D.バナールなどの科学史家が指摘するように「道具」は手足の延長として生まれ発達した。
石器やブーメラン、斧や矢などが人類の「手」の持つ空間的な作用範囲とパワーを拡大するようなツールであるのは読み取れる。魚や鳥を捕らえる「網」もそうだ。
獲得の一網打尽性と一括りに用語化しておこう。
ここにも動かずに、なるたけ広い空間に働きかける衝動が生きているのは確かなようだ。定住と安定だ。
しかし制約がある。空間的な認知能力の制約だ。
さらなる空間的な制約を超えるには目と耳の届く距離を広げてゆくことだ。
可視可聴域=可知範囲は当然のことながら物理的、身体的な制約を受ける。その制約を取り払うインフラが情報通信技術なのであろう。見える範囲、聴ける範囲、知りうる範囲を補強する手段として情報通信メディアがある。
そう、手元の空間はいまや情報ネットワークを通じて網目のように地表を覆わんとしている。喩えるならば、古代帝国の王者(アケメネス朝ペルシア帝国のダレイオス1世)が「王の目、王の耳」という名の代官を派遣して領土を支配したように、情報ネットワークを通じて多くの人びとが自分の可視範囲を拡大し、生活の充足を手元の情報端末で入手できるようなった。その象徴がamazonという呼び名だったりする。
つまりは衣食住などに関して「手元」をぎりぎり進歩させてきた、それがインターネット通販だったりするとベタに言うとそうなるわけだ。
「一網打尽性」と「手元」化が現代の技術的特徴であるとも言えるのだ。
それが農耕文明のたどり着く極限、行き着く終端として今日の情報通信技術(それに物流技術)がある。
『資本論』の冒頭にマルクスは「商品」の章を設けた。至るところ消費と生産がペアとなっている現代社会を端的に象徴しているのが、「商品」だ。現代人は生まれ落ちてからこのかた、商品空間のなかで暮らしてきた。
その売買は生まれついての本性となっている。
市場が生態系なのだ。
であれば、「amazon」は市場の拡張子の一つなのだ。それは市場がいかに素晴らしく根源的であるかってことであり、逆にインターネットが単に欲望の肥大した「一網打尽」の奇怪な現れであることになる。
言い換えるならば、病的にブクブクと肥大し至る所に寄生根を張り巡らせ、ありとあらゆる存在に取り憑いた根毛なのだ。
その生き様は大友克洋の「AKIRA」の登場人物の末期に似る、ってことなのかもしれない。
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