サイエンスとサピエンス

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福島第一原発事故の政府対応とシン・ゴジラ

 3.11の東日本大震災に伴って発生した福島第一原発事故。その政府対応については内外からメチャ批判がある。日本的特性による同調行動と隠蔽気質みたいな海外識者の批判も当たってないわけではないが、本質的ではない。あくまで外野の判断だろう。
 そもそもが、そんな皮相的な比較文化論では語り尽くせないだろう。第一、首相官邸でも混乱が支配していたはずなのだ。
早い話が危機管理体制がなっていなかった。民主党の閣僚たちは自分たちの判断ですべてを管理しようとしていた。これが最大の過ちだったと自分は思う。
 原発の客観的な状況把握と柔軟な組織運用ができていなかった、ただそれだけだ。パニックを起こさせないように隠そうとか、メルトダウンで日本壊滅だから避難だとか、そんな明確な判断を下せるような状況ではなかった。
 大体、専門家たちを組織化してその意見を適切に取りまとめる、総理直属特別タスク・フォース。そんな仕組みを持たず、短気に怒鳴り散らす首相の独断専行で東電や原発管制室に支持を出すなどというのは国家としては有りえない。それこそ理系政治屋の傲慢というヤツであろう。
 吉田所長の原発管制室との連絡チャネルを絞って政府と官僚、それに東電が一丸となって危機回避に動く、そういうマニュアルがあったはずなのだ。ちょうどアポロ13号の船内インシデントでNASAがそうであったように。
 まあ、しかし、肝心の東電本社側に安全神話バイアスがあったのも事実のようだ。
でもって、あの『シン・ゴジラ』での政府の危機管理対応は福島第一原発事故への深い痛恨から生まれた切実な願望充足だった。
だったから、あれだけ日本人に響いたんだと思う。
 想定外の事態に慌てふためいて短絡的判断で動こうとする、そういった素人行動は今後なしにしてもらいたいというのが、怪獣映画からの教訓なのだろう。

 アベノミクスをはじめ3.11対応についての失望を表明した知日派の辛口論評。

ジャパナイゼーション――日本の「失われた数十年」から、世界は何を学べるのか?

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 手厳しい政府批判の娯楽怪獣映画。