最近、危惧を抱きだしたのは核兵器の安全性です。
核爆弾を保有する国
(大国)アメリカ合衆国、ロシア、イギリス、フランス、中華人民共和国
(勝手我儘国)インド、パキスタン、北朝鮮、イスラエル
(被疑国)イラン、シリア、ミャンマー
このなかで、明らかに管理能力レベルの低い可能性の国々があります。
あえて国名はあげませんが、そんな国々がホクチ箱で火遊びしているのです。
あるきっかけで参考文献を読みだし、その深刻さと意味を再認識したのです。
第一に、核兵器は安全性と逆行する存在です。
兵器であることが意味するのは、
「攻撃すべきタイミングで間髪無く、ターゲットに適用される」
安全弁などの装置や他の機関による審議などは極力、なくすべきなのです。なぜなら、その攻撃の遅延が国家の存続にかかわる重大な兵器なのだから。とはいえ、自国内では安全というより、兵器としての即時投入のための製品安定性を保たねばならない。
そんな自己矛盾のかたまりが核兵器です。
当然ながら、平常時は安全性を維持する管理が持続されるべきです。当直者たちの気を抜くことのない高い安全意識と国家防衛の信念を両立しながら、常に攻撃可能であるように運用されなければならないわけです。
いつでも装填し、着火し、射出できるように、高濃度の放射性物資のエネルギー状態が維持されているのです。
平常時、どのような配慮がなされているか、アメリカ合衆国の公開文書やドキュメントを読む限り、限りない配慮はなされてはいるようです。
だが、それにも関わらず、重大な事故は何回も起きていることが分かっています。
核ミサイルのサイロ内火災やトライデント搭載潜水艦の放射能漏れ、核爆弾の爆撃機が墜落する、くらいであれば、まだしも幸運な事故であったと自己評価しているようです。MAD(相互破壊確証)は攻撃指令の実行は、起きてはいないです。
アメリカ合衆国やロシア(旧ソ連)では、スレスレの事態が起きています。
であるならば、上記の「管理能力レベルの低い可能性の国々」ではどんなポカミスや命令背反などが、いつ起きてもおかしくはないと思えてくるのです。
今更でもない事態をメモるのは、何も知らないまま偶発時で、危機に直面したくない。せめて危機的状況を認識しておいて、それから顔をそむけずにおきたいだけです。
【参考文献】
核のセキュリティとは、専門的にどのような手続きが必要なのかは、この本が詳しい。いったい、上記の国々は最低限の規則と保管設備をいつまで維持できるのだろうか。どこかの追い詰められた関係者がとち狂って、発射ボタンを押すなんてことがない、そういう管理体制をどれだけ持続できるのだろう?
1970年代から一歩の前進もないわけ。それどことろか、上記の「大国」はその統治能力を劣化させている節すらある。