「あなたは私のことを分かってくれない」と夫婦喧嘩で女性から指摘される男性は多いことであろう。
そうでなくとも、「おまえは俺を理解していない」と詰め寄る友人との仲たがいや
「クライアントの都合を把握していないで企画をつくるな」というビジネス・バージョンもある。
心理学や哲学の本を読んで、おまけに「人間とはなにか」をしきりに考える自分としては知識と実践が不釣り合いなのをおもわず反省してしまう。
だが、反省するのはなみの常識人でもできるのだ。
ここは一歩さがって、「普遍論争」という視点からこの理解不足をみつめなおしてもいいだろう。
略して、対人理解の齟齬と呼ぶことにする。
あらかじめ注意しておくけれど、本ブログの結論は個別の齟齬を解決することにはつながらない。下手すると拗(こじ)らせるだけであろう。
この齟齬で問われるべきことは普遍と個体、どちらが実在か、真理を担うのはどちらかだ。
カミさんや友人、クライアントの不満は個々のケースである。しかし、自分としては人間という類(普遍)をつねに考察しており、その普遍的な性質(本質)をいつも相手取っている。それが理性的な態度というスタンスだ(これが間違いの火だねであるけど)
それに対して、カミさんや友人という個体は重要な存在ではあるが、「本質」を分有しているだけであり、時々刻々とその性質や状態が揺れ動く。こうした変化や揺らぎは、なかなか十分にとらえることが難しい。
中世のスコラ哲学では「個別者を処理するのは感覚であり、普遍を処理するのは知性である」と八木雄二は指摘しているくらいだ。
上のような状況で、「普遍性を明らかにするのが自分の立場だ」と弁明してみたら、どうであろうか?
いや、もちろん、冗談だ。それが通用するはずもない。
日々の生活での人間関係のもつれには「普遍性」は役に立たない。しかあれど、普遍と個別に対してスタンスの差はプラトンとアリストテレスの哲学的立場の差までさかのぼるほど根は深いことは覚えておいてもいい。
個々のケースは「感覚的」であり「騙されやすい」とプラトンは考えていた。アリストテレス哲学は「個々のケースの実体性」を重視し、その背後にある普遍的なものを分析する方向性を示した。より実践的かつ科学的な態度であると評される所以だ。
だが、生涯未婚であったプラトンはあまり参考にならないとして、アリストテレスは伝説によれば始終カミさんの尻に敷かれていたとされる。弁論で対抗することはアリストテレスも諦めて、カミさんの言いなりなるのが賢者の道だとしたのであろう。
夫婦喧嘩は古代哲学にまで及ぶ根深い差異を歴史的再演していると考えれば、そして大哲学者が尻に敷かれていたとするならば、犬も食わない論争をヒートさせることなくアリストテレス的に耐えることに意味があるのだろう。
【参考文献】
夫婦喧嘩の分析的な入門書として下記を取り上げる人は皆無であろう。
より深く知りたい人にはこの本が歴史的に詳しい。
この本は希少なテーマ「アリストテレスの恐妻ぶり」を取り上げたものだが、古すぎて誰も読まなくなっているようです。