サイエンスとサピエンス

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「流言蜚語」と「立春の卵」

 「流言蜚語」と「立春の卵」は日本の科学者師弟コンビの名随筆2編であります。
 前者は関東大震災の経験を寺田寅彦が慨嘆したものとして、今日でもそのため息が伝わる作品となっている。

地震、大火事の最中に、暴徒が起って東京中の井戸に毒薬を投じ、主要な建物に爆弾を投じつつあるという流言が放たれたとする。

という書き出しが大震災の事件を指している。
 寺田は、人びとに冷静な科学的思考があれば、惨劇は防げたと考えている。そして、冷静な判断を求めている。

それはその市民に、本当の意味での活きた科学的常識が欠乏しているという事を示すものではあるまいか。

 「立春の卵」は中谷宇吉郎の代表作といえる名編だ。こちらは明るい気分の書き出しで関心を惹く。

立春の時に卵が立つという話は、近来にない愉快な話であった。

 1947(昭和22)年4月の作品だから、戦後の開放がもたらした精神的高揚も少しは影響してはいよう。

 立春の時刻に卵が立つというのがもし本統ならば、地球の廻転か何かに今まで知られなかった特異の現象が隠されているのか、あるいは何か卵のもつ生命に秘められた神秘的な力によるということになるであろう。それで人類文化史上の一懸案がこれで解決されたというよりも、現代科学に挑戦する一新奇現象が、突如として原子力時代の人類の眼の前に現出してきたことになる。

 その解決は心理的な盲点をつくものであった。

卵は立たないものという想定の下もとではほとんど不可能であり、事実やってみた人もなかったのであろう。そういう意味では、立春に卵が立つという中国の古書の記事には、案外深い意味があることになる。私も新聞に出ていた写真を見なかったら、立てることは出来なかったであろう。何百年の間、世界中で卵が立たなかったのは、皆が立たないと思っていたからである。

 これも貴重な科学的教訓を伝える文章である。それと同時に、人びとの心理というものがお互いに伝染する対照的な事例を提供していると言える。
 一つ(寺田の事例)は愚行に落ち込む、もうひとつ(中谷の事例)は新たな知識をもたらしている。元々は両方とも妄想に近い噂にすぎない。それが異なる結果となることが妙味である。
 「立春の卵」は理知的なトリビアであり、自己実現的な予言であろうか。卑近な科学的な関心が面白い事実を生み出している。ちっぽけなパラダイムシフトなのだ。それに引きかえ「流言蜚語」は集団的狂気を扱うのである。
 口コミで拡散する内容にはこの二種、「立春の卵」と「流言蜚語」にわけられるのではなかろうか。

 Twitterはこうした両側面があるようなメディアだ。写真と数行の文で伝わることは限られている。推敲もなければ検閲もない。その場かぎりの思いつきが伝染する、そういうメディアだ。デジタルメディアなのでオリジナルの発言はそのまま複製されて拡散するのだが、昔の口コミよりもある意味、劣化しやすい。
 匿名性のせいだ。身振りも表情もなにもないままに、文字(と写真)だけで伝線してゆく。匿名性のために真偽性は見えにくくなる。
 内容によっては「流言蜚語」的になるのは目に見えている。「流言蜚語」は時間の無駄である以上に社会的害悪そのものだ。また、「炎上」ネタに関与することほどの生命の浪費はない。「炎上」で人びとは一時的な「羨望」「義憤」「不公平感」という狂気にとらわれるのだ。だが過ぎ去ってしまえば、何も残らない。
 それよりは理性を働かせ、「立春の卵」的な伝言を図るように務めようではないか。生活が豊かになることうけ合いである。