サイエンスとサピエンス

気になるヒト、それに気なる科学情報の寄せ集め

著作権という呪術思考

TPPでは米国の圧力で著作権の延長が決まる勢いである。
いくつかの懸念を示しておいてから、著作権という名前の儀礼呪術について考えてみたい。

 まず、懸念から。著作権者が生存している間の権利所有にはいささかの問題もない。問題は著作権者の死後、半世紀(それでさえ十分長期だが)よりもさらに延長することの弊害である。
 精神的遺産である著作物は文化財である。見たい知りたいという願望が持続するような著作物は国民的な財産といえる。記紀万葉集歌人たちが残した情緒や情報は共有財産であり、日本語を使う人々にとって精神的な基盤である。
 もっと時代が下って明治期の文人や先覚者たちが西洋文明を噛み砕き日本の精神的共有財にその努力と叡智を加えていなかったなら、今の日本はないだろう。
 先人たちがいつまでも見返りとなる「財」を要求するために、そうした行為と蓄積を残したのだろうか?
 「否」だろう。
とくに明治期の先人たちは国民生活の向上のために(西洋諸国からの)国家の防衛のために後代にその遺産を託したのだ。
 その末裔たる日本語ピープルは死後いつまでも見返りを金銭を子孫に要求するというのはいかがなものか。
 たとえあったにせよ半世紀で十分であろう。

 世代間格差を次に取り上げたい。
戦後、間もない経済発展期に文化的なパターンは急速に発展した。メディアのコンテンツの大枠は数十年で日本社会に定着し、定型化した。
サザエさん」「ドラえもん」「なんとかレンジャ」とかを考えればよくわかる。すべてバリエーションだ。アニメだけではなく音楽や文学、演劇などでもおおよその定型パターンは出尽くした感がある。
 俳句などは素人の自分のものに似てない句を探すのは至難の業だろう。
 先行者のメリットだ。はじめに陣地を押さえたら勝ちなのだ。
後代のものはどうするのか?
 いつまでも先代の遺産に押しひしがれるのがいいのか?
若者はどうするのか?
 いつまでも世代間格差の歪みが彼らの背中にのしかかるのが妥当だろうか?

 それらの遺産を無償開放すればリミックスすることで時代の微風を再生できるのだ。