サイエンスとサピエンス

気になるヒト、それに気なる科学情報の寄せ集め

技術大国の歴史的要因 軍事技術の転用

 戦後日本が経済成長を遂げた理由は単に商売熱心だったからではない。技術大国、それも民生用の技術大国に転身したためであることは反証の余地はないだろう。
その技術大国の大きな要素としては戦前戦中に培った軍事技術の蓄積と技術者たちの役割を無視することはできない。
 松下幸之助本田宗一郎らのパイオニア精神はよく知られ、顕彰されている。しかし、軍事技術の転用をもう少し歴史の日向に出す必要はあると思う。確かに独創性にはこと欠けるが、しかし、国民生活の発展には大きな貢献をしている。別に戦前のファッショ、軍部の独断専行を褒めるつもりは毛頭ない。正当な評価と顕彰をしたいがためだ。
 造船や鉄鋼業などは戦争技術の継承の例としては、当然すぎて面白みに欠けるだろう。本論では、語りたくても語れない航空機の技術継承はGHQから開発を禁止されたので複雑な経緯をたどることになる。

 ということで、ここで取り上げたい典型が、碧素(ペニシリン)だ。角田房子の著書で紹介されているが、1943年にドイツの医学雑誌から存在を知った陸軍軍医学校で開発され、人体実験で成功した。量産には至らなかったが、その民生転用は1947年からであり、多くの患者を救っている。
 外部の刺激により技術開発したというのが圧倒的に多い。それは開国以来、100年もたたない国家としては無理からぬ事情というものだろう。
 光学技術もいい例を持つ。
 電子顕微鏡は戦争中に実験機が製作されている。碧素と同様にドイツからのニュースと(不十分であるが)技術情報が刺激となる。
1939年に瀬藤象二東京帝国大学教授が開発プロジェクトを立ち上げ、日立や東京芝浦電気などが参加した。1945年までには大阪帝国大学、日立、東芝が試作機の製作に成功していた。
 戦中の電子顕微鏡とはちょっと風変わりな組み合わせ例である。
ここまでは軍部とは関係ない独立の技術開発であったが、風戸健二という人物が関わってくる。彼は海軍技術研究所の技術将校であった。
 戦後、千葉県茂原に幅員して独立で電子顕微鏡の開発を始めたのだ。幸い瀬藤象二の研究プロジェクトにも参加でき、1947年には試作機第一号を完成。ただし、これは失敗作。これにめげず試作機2号を完成。実働わずか18ヶ月で商品化にこぎつける。それが日本電子株式会社となり、日立製作所とならぶ日本の電顕メーカーになったという。
 吉田五郎のカンノンカメラはライカの模倣からスタートした。その精機光学研究所製レンズは陸海軍の光学兵器に採用される。カンノンカメラの後の姿がキヤノンである。ニコンも同様な経緯がある。

 手元の少ない情報でもこれだけの事例がある。日本の科学技術史の忘れべからざる一コマとして、もっと正当な評価をする必要があるのではなかろうか?

【参考資料】
 ペニシリン研究が戦時下に進んいたという歴史秘話ヒストリアHistoryの語源のギリシア語の意味は「物語り」だったなあ。

碧素・日本ペニシリン物語 (1978年)

碧素・日本ペニシリン物語 (1978年)


 軍部の技術研究所の歴史はそれほど長くないが後世への影響は長く続く

海軍技術研究所―エレクトロニクス王国の先駆者たち (光人社NF文庫)

海軍技術研究所―エレクトロニクス王国の先駆者たち (光人社NF文庫)


 スマホ登場以前は日本がカメラ大国であったことを忘れがちだ。その歴史もまた忘却されてはならない。


 国産電子顕微鏡の逸話はこの本にある。電顕は我が国の医学生理学研究に大きな貢献をする

細胞発見物語―その驚くべき構造の解明からiPS細胞まで (ブルーバックス)

細胞発見物語―その驚くべき構造の解明からiPS細胞まで (ブルーバックス)