サイエンスとサピエンス

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自発的隷従の帰結

 16世紀のフランスというと王朝支配の時代であったが、キリスト教の旧教と新教のあいだの宗教戦争でモミクチャになり混乱を極めた状態でもあった。
 二十歳にもならぬエティエンヌ・ド・ラ・ボエシがそうした政治的状況のなかで一者支配がもたらす悪を糾弾する書を残した。
 まさにルネサンス期の閃光というべき主張がそこにある。
 被支配者の奴隷的精神が一者の圧制者の横暴を誘発する。逆に独裁的一者支配は人々を奴隷的状態におとしいれる。自発的隷従ということばで雄弁に論じたのだ。
 日本人の歴史感覚からすると信じられないほど過去に、自由というものをまことに力強いことばで発したわけである。日本は江戸時代になったばかりの頃だ。

 この主張が預言的なまでに未来の政治を見通していた。20世紀から今に至るまで一者支配が猛威を振るったのだ。
 まずはファシズムがあった。
 日独伊の軍国主義は色合いが異なるが自己本位な暴力的統治が目に余る「独裁」であった。
 人種神話がもう一つの特色ともいえる。ドイツはアーリア民族支配を唱え、日本には大和民族による支配=五族協和という独善主義があった。
 ファシズムは大衆の自発的隷従を生み出した。ナチに関しては多くの有名な政治的分析があるが、我が神国日本については丸山真男の『超国家主義の論理と心理』が犀利な論旨を展開して読ませる。


 ところで、他極の隷従とその不可視にして深刻な帰結をもたらした政治形態は「共産主義」国家であった。
 被害の量的な比較においてはファシズムを凌駕している。共産主義政権が至るところで行ったことは、自国民に対する大規模なテロルであった。
 ケストラーの指摘するように「正義」の名のもとに狂信的な狂騒と暴力が自国民を総ナメにした。
 被害を逃れた、あるいは知らなかったのは「自発的隷従」した人々だけである。奴隷的な精神だけが生き延びた。
 ロシア革命を取り上げてみよう。
 スターリン体制がテロルの先鞭をつけたかのように語られるが、その体質はレーニントロツキーにすでに備わっていた。狂った支配は、そうだ、レーニン統治下ですでに開始されていたのである。
 それをあからさまにしたのがクルトワとヴェルトの『共産主義黒書』であった。
 プロレタリア独裁による粛清もしくは収容所送りは同業者であるメンシェヴィキアナーキスト自由主義者にもおよぶ。それも貴族やブルジョアがとうに消滅してからの話だ。
 言論と表現の自由はなくなり、富農から財産を剥ぎとり、農民を大飢餓に追い込み、反抗する工場労働者をムチでブチのめす。これが法のもとではなく、共産主義という理想というイデオロギー=一部のエリート指導層の独断でいとも容易く実行されていくのだ。
 トロツキースターリンを排除していれば、まともな社会主義国家になったという人もまだいるが、それは違う。かつての盟友のメンシェヴィキやクロンシュタットの兵士を粛清した張本人だからだ。

 法治国家の体をなしていないどころではない。エリート指導層の「ユートピア」実現という観念のために専制的権力があった。そして、不法と暴力が容赦なくロシアの大地を支配したのであります。

 銘記しておきたいのは、プロレタリア一党独裁の危険性を予言した一人に、ローザ・ルクセンブルグがいるということだ。レーニントロツキー批判の先鞭をつけただけではなく、いわば身内のマルキストから、その危うさを内部告発している。

プロレタリアの歴史的使命は、権力を握ったときに、ブルジョア民主主義のかわりに社会主義的民主主義を創始することであって、あらゆる民主主義を廃棄してしまうことではない

 人間の肉声が響く。レーニントロツキー路線はスターリンの大粛清への鉄路を用意していた。第一次世界大戦のさなかにして、すでにドイツの鋭利な思想的闘士はそれを見抜いていたのだ。

 乱世の梟雄というべきレーニンがローザを評した有名な発言がある。

ローザ・ルクセンブルグはその誤りにもかかわらず、やはり鷲であったし、いまでも鷲である


【参考書】
 たぶん、ラ・ボエシさえ理解すれば社会的正義と自由の感覚は十分に賦活できるだろうと思う。

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

共産主義黒書〈ソ連篇〉 (ちくま学芸文庫)

共産主義黒書〈ソ連篇〉 (ちくま学芸文庫)

ロシア革命論

ロシア革命論

ローザ・ルクセンブルグスパルタカス騒乱のなかで敢えない死をとげる。彼女の革命は他者を死に追いやるよりは自らを犠牲したとも言える。