世界に拡がる高等教育システムの原点としてギリシアの哲学者プラトンの創設した「アカデメイア」がある。ソクラテスとプラトンの教説はこの組織が紀元後、東ローマ帝国のユスティアヌス皇帝によって閉鎖を命ぜられるまで、伝え続けられた。
一部の学者によっては東ローマ帝国でもプラトン学派の流れは絶えなかったという。イタリア・ルネサンス期にコンスタンティノープルからのプラトン学派の難民がフィレンツェのフィチーノたちにその燈火を渡したというヒトもいる。
ものの本によれば、アカデメイアは古代アテナイから西北にあった聖域に設置された。当時のアテナイは「ポリス」であり、城壁に囲まれていた。その城壁の神聖門から1キロほど離れた場所(当時の区画ではケラメイコス外区)である。ソフォクレスの演劇の舞台であるコロノスも近い。
聖域の杜が、つまり、鬱蒼とした森林があったようだ。今はとGoogleMapでみると公園になっているが、聖域の雰囲気はあまりない。
アリストパネスの『雲』はソクラテスを揶揄した喜劇だが、そこには聖域の自然が歌われている。
アカデメイアの聖域に行き、聖なるオリーブの下で
白廬の冠をかぶり、同世代の仲間と競技をしている、その身体から、
櫟(いちい)や無憂草、白ポプラの香りを漂わせ。
鈴懸とニレの樹がかわすざわめきに春を愉しむ
21世紀のアテネでは、記念公園とはなっているものの、現地への訪問記を読んでも、ガイドも案内板もなにもないという。しかも、住宅地に完全に取り込まれている。プラトン通りという名称があるのが慰めか。
この場所にはエロス、プロメテウス、ヘパイストスの祭壇があった。学問の女神ムーサの祭壇があったともいう。また、体操競技場もあった。
プラトンの私邸はここから北東へ数百メートルのところにあったようだ。その先にコロノス・ヒッピオス(うまの丘)がある。
古すぎて何も当時の面影がない。さりとて廃墟でもない。廃墟であればそれはそれで歴史を感じるがそれもなく、観光案内板もほとんのどないアカデメイアの現状、その理由は現ギリシアは古代のギリシア人たちの直系であり、アテネは今に至るまで、この地でズッーと生活をし続けてきたことが最大の理由だろう。
公園内の敷石などのあとを眺めるとプラトンやその弟子のアリストテレスなどが学んだ場所の情景が過る。
- 作者: 広川洋一
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1999/01
- メディア: 文庫
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