戦後から20世紀末までの日本の技術立国とともに歩んだ預言者たち、というのは第一世代のSF作家や漫画家、編集者や翻訳者たちのことをここでは指す。
高度成長期までは華麗なる未来のビジョンを描いた人びと、すなわち星新一、福島正実、大伴昌司、半村良、小松左京、今日泊亜蘭、手塚治、栗本薫、黒丸尚、柴野拓美、野田昌宏、石ノ森章太郎、浅倉久志、山野浩一、石原藤夫、藤子不二雄(片方)、平井和正、河野典生(早々と亡くなった広瀬正、団地住まいのソ連SF翻訳家の深見弾、生活に破綻し自殺した鈴木いずみ、がんで若くして逝った伊藤計劃なども含めていいだろう)などの草創期の世代は、2018年の今、存命ではない。
彼らがクールジャパンのコアであるソフトパワーの発展に多大なる貢献したのは間違いない。その作品、翻訳や脚本など、ロボットや宇宙戦艦、変身超能力少女、異世界の戦士ものなど日本の文化装置になっていないものがない。
初期の子供向けの変身ものロボットものアニメは彼らが脚本を書いていた。ガンダムや宇宙戦艦ヤマト、あるいはエヴァなどのコンテンツ、それに無数のファンタジー系のRPGゲームはその後継コンテンツだろう。
こうした一群の「科学の預言者」が初期の頃のイノベーティブな発想が枯れて大衆向け娯楽作家となり、あるいはSFの出版がゲームカルチャーに塗り替わる様を目の当たりにし、遂には病気になり老衰して、この世を平々凡々と去ってゆくのを見るのは、なんとなく切ないものがある。
一方で、次第に息苦しくなる地表から、早めに離脱してゆくのは羨ましくなくもないのだ。
戦後知識人の大御所であった加藤周一は科学小説を低レベルな科学理解をもとにした娯楽的小説であるとニベもない評価を残していった。それも『現代の社会と人間の問題』での「余談」だった。
余談ながら科学小説の科学は通俗科学であり、小説は通俗小説であるから、科学小説とは通俗性の二乗の上に成りたつ道楽である
俗っぽさの二乗の道楽とは論ずる価値もないということだろう。
それは一面では当たってはいるが、伸びゆく科学技術の行き着く先の夢を、ほんの一時ではあるが人びとに垣間見えるしてくれたのは、これらの「科学の預言者」たちだったと思うのだ。
太陽系を超えて人類文明が拡がる未来がある、時間旅行がツーリストから販売される、銀河系をまたにかけた冒険ができる、異星の文明社会とファーストコンタクトする、...といったことを信じる単純さは誰にも、大衆にも残されてはいない。
いや、現実味が残された分野が一つだけあった。
AIの文明ハックや温暖化などによる人類の終末だ。
ブラックジョークはさておき、希望が失望に置き換わってきたのは事実だろう。これも世界大戦後の歴史プロセスというやつの必然なのであろうか。「預言者たち」が去ってから、科学技術とその未来に対する沸騰するような情熱は、もはや、二度とやってこないだろう。
忌々しいことに、現在の「SF小説」は、加藤周一が表現した「娯楽の二乗」に接近してきている。
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