ことさらグッドマンのパラドックスを始末が悪いと眉をひそめるのは何故か?
まずはじめにグッドマンのグルーを語っておこう。
G1) 一般法則は個別の事例のどれによっても確証される
確証(confirm)とはある命題ががある仮説を支持する何らかの証拠を提示していれば、その命題はその仮説を確証するという定義による。
0)すべてのエメラルドはグリーンである
0)という仮説は一つのエメラルドを観察してグリーンであれば、つまり「このエメラルドはグリーンである」という一つの証拠で確証される。
ネルソン・グッドマンは!)「ある事物Xがグルーである」と見なされるのは、それが次の条件のどちらかを満たすときであるとする。
1)Xがグリーンであり、すでに観察されている
2)Xはブルーであり、まだ検査されていない
つまり、個々のエメラルドの観察は仮説0)だけでなく、仮説!)も確証しているのことになる。もちろん「エメラルドはグルーである」ことなど誰も信じていないのである。
また、これはG1)という前提に従って異常(日常の判断とかけ離れた推論)な結果に到達してしまうことを示している。
「グルー」などという不自然な定義が悪さをしているとい反論がある。それが暗黙に定義のうちで特定のタイミングに言及している点だというのが反対者の言い分だ。
これは興味深い「言語学上の法則」に関わってくる。言語変化のことだ。言語の用法や発音は変化にさらされている。使われなくなる単語もあれば新たな意味を獲得する単語もある。文法ですら変化するし、ヒンズー語と英語は同じ言語から枝分かれしたとか、グリムの法則とか変化にまつわる様々な圧力が言語を変容させている。
グリーンなる用語は1000年後にはブルーになっていないととも限らない。つまり、論理学のパラドックスは言語学の常識でもあると極論できるかもしれない。
外国人から日本の信号のミドリとアオの入れ替わりの指摘があるが、ブルーがグリーンに言い換えられている点で、グッドマンのパラドックス状況と言えなくもない。
日本人にはエメラルドの色はある状況では「ブルー」とされるが、ある状況では「グリーン」である。
個別の観察は何を確証しているのだろうか?
「エメラルドはグルーである」は歴史的な言語変化を踏まえれば、いつも生じている。
ということは、科学的命題の確証というのは通時的には不可能なのではあるまいか?
バビロニアの占星術師は天文学者の先祖といっていいが、彼らの十二星宮の理論は現代科学により非確証されている。それは「言語」すらも異なっているからかもしれない。
【参考資料】
【中古】 パラドックスの哲学 /R・M.セインズブリー(著者),一ノ瀬正樹(訳者) 【中古】afb
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