サイエンスとサピエンス

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熊沢蕃山の越流堤

 瀬戸内式気候の岡山をはじめ今回の平成30年7月西日本豪雨による被害の甚大さに自分は茫然自失するテイタラクである。
 こうした悲劇を前にして、治水というものを少し別な観点で考えることが必要ではないか。
 砂防ダム、堤防などや山林の保護、それにハザードマップなど着実に進展してきた洪水への防災対策であるけれど、なにか肝心なことが不足しているのではないだろうか?

 江戸初期の民間的儒学者である熊沢蕃山(ばんさん)の思想と行動を振り返りながら、考えたことをメモる。
 室田武などによりエコロジー思想の先駆者として評価された熊沢蕃山。彼は近代に至るまで江戸儒学の最高峰に連なる人物として尊敬されていた。
 例えばの話、新渡戸稲造は『自警録』で「むかしの立派なる教育家貝原益軒中江藤樹、熊沢蕃山等はみな塾を開いたことはある」とし、キリスト教徒であった作家正宗白鳥は『月を見ながら』で「熊沢蕃山、山鹿素行山崎闇斎、大塩中斎、など、凡庸を脱して、徳川の官学に盲従しなかつたのであるが、どれも孔子に楯突くことはしなかつた」とするなどだ。

 しかしながら、その治水思想は他の儒学者国学者、あるいは僧侶などにはない自然との一体性や独自性があるといっていい。
 国学者は自然との共生などとは考えもしなかった。それは国学の前提であるアニミズムからしてそうなるだろう。自然と人が対立しないのだ。
 他方、すべての生あるものへの慈愛を説くべき僧侶がエコロジカルな思想を説いた例が江戸時代にないのは異とすべきだろう。

 百間川というのが岡山にある。旭川の大雨時の放流用水路であり、蕃山の構想のもとに作られた。
 彼の『大学或問』によれば、

西国にて、大川の下に城あり。士屋敷町屋城下にあり。度々の水破にあへり。川どこいよ/ヽ高く成たれば、重ての洪水には人も死すべし、家中町共に流れんことを憂ふ。これに依て、予川よけの道を教ゆ。予がいひたる様に金はなけれ共、大形にはしたりし故、其後数度の大雨にて水出たれ共、城下つゝがなし。

 また、山林の用を的確に指摘してもいる。

檜並二雑木、山々に多くば、夏は神気盛二成て、夕立度々すべければ、池なくとも日損なかるべし。山しげりて山谷より土砂を出さずば、川は一水/ヽ二土砂海に落てふかく成べければ、洪水の憂もなかるべし。富有の大業を生ずる事あげてかぞへがたし。

「蕃山は,大洪水の主たる発生原因が山林の荒廃と樹木の伐採にあることを早くから見抜き,そのための根本的な対処法は山林の荒廃を防ぎ,荒れ果てた山林を元の緑豊かな山林に回復することであると考えていただけでなく,実際に岡山藩下に多くの殖林を行った」と奥谷浩一が『環境倫理学から見た熊沢蕃山の思想』で指摘している通りだ。また、単なるモノカルチャー的な植林ではなく、「今の松山自然に雑木山と成べし」として天然林に近い雑木林が推奨されているのも面白い。

 だが、地球温暖化が急速に進展するこの時代にあっては、それだけで事足りる、というわけではない。
 現在の治水工事の基本思想は「確率年」によっている。
 河川の重要度に応じて、X年に一度の洪水を防ぐという基準を立てる。一級河川の主要区間では200年以上、一級河川その他の区域と二級河川では100年から200年というようにだ。
 ところが、近年の豪雨は観測史上の記録をことごとく打ち破っている。つまり、「確率年」の計算根拠である計画高水流量の統計的根拠が無意味になっているということだ。

 これは洪水を完全に防ぐという手立てでは限界に来たということを意味していると考える。江戸時代の為政者や治水担当の武士はその技術的限界もあり、自然に対して謙虚であった。瀑流のパワーを完全に制圧しようとは微塵も考えなかったであろう。蕃山の思想もそうだった。
 彼の「川よけ」がそうだ。再び、奥谷浩一論文を引用しよう。

大量の雨が降って川が氾濫した場合,堤を越えて洪水として流れようとする川水を,いわゆる「越流堤」を築造し,遊水池や遊水河川を掘削してこれへと逃がすというものであった

 また、大熊の著書『洪水と治水の河川史』には筑前川での江戸時代の「成富兵庫の治水システム=野越」の例がある。氾濫流の逃し場を作っているのだ。
 21世紀の人類こそ、この流れを継承しなくてはならないのではないか?

 早い話、堤防が予測し難い重要箇所で決壊するのではなく、予め壊れる場所を決めておくのだ。
 そして、大きなバッファーを設定しておく。それも専用の遊水地などといういう金や場所を取るような逃し場所ではなく、経済価値の低い田畑や無人の場所へ流し込むような決壊地点を設定しておくのだ。意図的決壊点設計による安全対策が必要なのではないか。
 繰り返すけれど専用の溜池や用水池ではない、低価値で人命に関わらない土地を潰す覚悟を決めておこうというのだ。

 大熊孝もその『洪水と治水の河川史』で「超過洪水対策」が不足していると指摘している。スーパー堤防のような、あるいは春日部にある「首都圏外郭放水路」のような巨大な設備で人為的なバッファーを設けるのはもはや時代錯誤であるのではないか。*1
 オランダの防災対策でもそのような巨大なバッファーを設置し、広大な干拓地に濁流を誘導し人命を守る施策があると聞く。オランダ人たちは命を守るために、せっかく干拓した土地を沈める決意と覚悟なのだ。
 税金を投入した巨大な土木技術で防災するのではなく、こうした自然界の猛威への対処としての「遊び」を考えるべきではないだろうか。命を守る「遊び」地が必要なのだ。
 
【参考資料】
 室田武のような幅のある経済思想家は見かけなくなった。経済関係者の誰もがみんな金策しか論じなくなっているような気がする。

 貴重な啓蒙書というべき。江戸時代の『百姓伝記』しか参照できないのはしょうがないか。

増補 洪水と治水の河川史―水害の制圧から受容へ (平凡社ライブラリー)

増補 洪水と治水の河川史―水害の制圧から受容へ (平凡社ライブラリー)

 治水の見積もりは一種の統計工学なのだ。

水圏水文学

水圏水文学

 「日本の名著」シリーズでの蕃山の原著も簡単には入手し難いとは困ったにゃん。江戸時代の思想家なんて、今どき気にしないもんなあ。

日本の名著 (11) 中江藤樹・熊沢蕃山 (中公バックス)

日本の名著 (11) 中江藤樹・熊沢蕃山 (中公バックス)

 

*1:何百年に一度ではなく、何千年に一度のような大豪雨にはむしろその機能不全や決壊によりより事態を悪化させるかもしれない。重厚長大な施設は老齢期になる国家にふさわしいのだろうか?